鎌倉観光
江の島観光
江ノ電の走るまち

鎌倉観光 鎌倉の風景や見所を紹介します。

鶴岡八幡宮初詣正月の鶴岡八幡宮
康平6(1063)年に源頼義が奥州の「前九年の役」で勝利を収めたことの礼として、京都の石清水八幡宮を勧請した元八幡(現在でも材木座にあります。)が始まりといわれます。


荏柄天神社の梅荏柄天神社の梅
創建は長治元年(1104)と伝えられ学問・詩文に優れた菅原道真が祀られています。道真は遣唐使を廃止するなど国政に携わっていましたが政敵におとしめられ九州に左遷されました。「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな 」の歌がのこります。生前の実績が学問の神としての信仰を集めています。


安国論寺の梅安国論寺の梅
日蓮上人が草庵を結んだ地といわれます。文応元年(1260)日蓮は「立正安国論」を書き前執権北条時頼に建白しました。他宗を禁じないなら災いが起こるという内容でした。そのため他宗による焼き打ちにあいました。そのとき白い猿があらわれて日蓮を避難させたといいます。裏山には日蓮が避難したという南面窟が残っています。 日蓮宗。


浄妙寺の梅浄妙寺の梅
源頼朝の忠臣であった足利義兼が文治四年(1188)に建てました。もともとは真言宗でしたが建長寺開山蘭渓道隆の弟子である月峯了然が臨済宗に改め浄妙寺としました。臨済宗建長寺派。鎌倉五山第五位。



瑞泉寺の黄梅瑞泉寺の黄梅
鎌倉幕府の重臣であった二階堂道薀(どううん)が夢窓疎石を開山とし嘉暦2年(1327)に創建しました。夢窓疎石に帰依した足利基氏によって瑞泉寺と改名され足利氏の菩提寺として栄えました。夢想疎石の作庭した庭園が有名です。
臨済宗円覚寺派。


七里ガ浜七里ガ浜の海岸
サーフィンがさかんです。撮影がおこなわれることもしばしば。


稲村ガ崎の朝稲村ガ崎の朝。日の出の直前に富士山が桃色に染まります。


長谷寺の白木蓮長谷寺の白木蓮
養老5年(721)奈良の長谷寺の開山でもある徳道上人が一本の楠の霊木で二体の十一面観音像を彫りました。一体を奈良の長谷寺に祀りもう一体を縁のある地に迎えられることを祈り海に流しました。16年後の天平8年(736)6月18日夜、相模国三浦に流れ着いた像は光をはなっていました。像は鎌倉に移され長谷寺が建立されました。開基は藤原鎌足の孫である藤原房前、開山は徳道上人が招かれました。木造の仏像では日本最大といわれる高さ9.18mの本尊十一面観世音菩薩は長谷観音の名で知られます。「長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波」という歌があるほど眺めが良いところです。浄土宗。


鶴岡八幡宮へと到る段葛の桜鶴岡八幡宮へと到る段葛の桜
源頼朝が妻である北条政子の安産を祈願して造った道です。


建長寺の桜建長寺の桜
日本で最初の禅寺です。建長5年(1253)に北条時頼が宋の蘭渓道隆(大覚禅師)を開山として建立しました。 鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)は中国南宋の禅宗にならい格式の高い五つの寺を定めたもの。 鎌倉五山第一位。臨済宗建長寺派。


浄智寺の枝垂れ桜浄智寺の枝垂れ桜
弘安4年(1281)、5代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため遺族が建てました。
臨済宗円覚寺派。鎌倉五山第四位。


静の舞4月の鎌倉まつりで披露される「静の舞」
頼朝と不和になった義経の愛人である静御前は大和の吉野山で捕らえられ、舞を奉納するよう命じられます。「よし野山 みねのしら雪ふみ分けて 入りにし人のあとぞ恋しき」「しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を歌った静御前に頼朝は激怒しましたが、その怒りを鎮めたのは静の気持ちを理解した政子でした。


寿福寺の新緑寿福寺の新緑
源頼朝を弔うため北条政子が正治二年(1200)に建てました。もともとこの地は頼朝の父である源義朝の屋敷でした。頼朝はここに幕府を構えようとしましたが義朝を弔うお堂が建てられていたためやめたといわれます。墓地にはやぐらがたくさんあり、そのなかに政子と源実朝の墓といわれる五輪塔があります。臨済宗建長寺派。鎌倉五山第三位。


妙本寺のシャガ妙本寺のシャガ
北条時政は源氏との関わりが深い比企一族をおそれ後継者問題を口実に滅ぼしました。難を逃れた比企能本(よしもと)が一族の菩提を弔うために文応元年(1260)に建立した寺院です。
日蓮宗。


安養院のツツジ安養院のツツジ
北条政子が頼朝の菩提を弔うために建てたお寺です。政子の法名から安養院となりました。政子の墓とされる宝篋印塔があります。浄土宗。



鎌倉文学館のバラ鎌倉文学館のバラ
鎌倉にゆかりのある文学者達の品々が展示されています。建物は安土桃山時代の武将前田利家の系譜である旧前田侯爵家の鎌倉別邸が市に寄贈されたものです。


報国寺の竹林報国寺の竹林
建武元年(1334年)創建。開基は足利家時とされていますが、家時は1317年に没したとする記録があるため上杉重兼であるともいわれます。山際には足利一族の墓であるやぐら(山を掘って造った墳墓)があります。臨済宗建長寺派。


明月院の紫陽花明月院の紫陽花
平治の乱(源義朝と平清盛の争い 平氏が勝利した)で戦死した首藤刑部大輔・俊道を弔うため子の首藤刑部太夫・山ノ内経俊が永暦元年(1160)に明月庵を建てました。この地に5代執権北条時頼が立てた最明寺跡に子の8代執権時宗が禅興寺を建立しました。室町時代に関東管領をつとめた上杉憲方が塔頭(たっちゅう=寺院内の小院)として建てたのが明月院です。明治初期に禅興寺は廃寺となり明月院が残ります。境内には北条時頼の墓が、山際には上杉憲方の墓と見られる鎌倉時代最大級の明月院やぐらがあります。臨済宗建長寺派。


長谷寺の紫陽花長谷寺の紫陽花
散策路には2500株の紫陽花が植えられています。


成就院の紫陽花成就院の紫陽花
弘法大師が護摩供養をした霊場跡に、北条泰時が開基となり承久元年(1219)再建したと伝えられます。108段の石段には262株(般若心経の文字数)の紫陽花が植えられています。石段を登りきると海が見えます。映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」に登場しました。寅さんといしだあゆみさんがここで待ち合わせしてデートしました。真言宗大覚寺派。


鎌倉花火大会鎌倉花火大会の水中花火
船から海中に投げた花火が高々と舞います。



極楽寺の芙蓉極楽寺の芙蓉
執権北条義時の子である重時が慈善事業を数多く行い人々の尊敬を集めていた忍性を開山として正元元年(1259)に創建しました。境内には忍性が救済に用いた臼や鉢が残ります。真言律宗。


宝戒寺の萩宝戒寺の萩
幕府を倒し天皇親政を復活した後醍醐天皇が北条氏の鎮魂のため創建しました。萩寺とも呼ばれます。天台宗。


御霊神社の面掛行列御霊神社の面掛行列
源頼朝がこの地の村を訪れた際に村の娘に魅せられ、娘は妊娠しました。一族は力をもち年に一度だけ無礼講(地位の上下を抜きにして行う宴会)を許されました。面掛行列はその様子を再現したものといわれます。おかめなど十の面を被った行列が町内を練り歩きます。


小町通り鎌倉駅東口の小町通り
お店が立ち並ぶ人気スポットです。


釈迦堂口切通し釈迦堂口切通し。切通しは岩場を削ってつくった道です。映画「ツィゴイネルワイゼン」に登場しました。


材木座海岸材木座海岸
マリンスポーツがさかんです。遠くに富士山と江の島が見えます。


材木座海岸の日没材木座海岸の日没
北条泰時の頃、石を積んで造った港が造られました。和賀江島(わかえじま)と呼ばれます。潮が引くと姿を現します。


永福寺跡のススキ永福寺跡のススキ
永福寺は源頼朝が建久3年(1192)に建立した大寺院。室町時代の応永12年(1405)に焼失。藤原泰衡や義経ら奥州討伐の戦没者の霊を慰め、自身の権勢を示すために建てたといわれます。
 


円覚寺の紅葉円覚寺の紅葉
禅宗を広め、文永・弘安の役(元寇)の戦没者の菩提を弔うために弘安5年(1282)に創建されました。開基は8代執権北条時宗、開山は宋から招かれた無学祖元。「円覚」の由来は、工事の際に「円覚経」と呼ばれる経典が発見されたことによります。夏目漱石が滞在し「門」などその作品中に描かれることでも知られます。鎌倉五山第二位。臨済宗円覚寺派。
 


東慶寺の銀杏と紅葉東慶寺の銀杏と紅葉
東慶寺の創建は弘安8年(1285)。開基は9代執権北条貞時、開山は時宗夫人で貞時の母である覚山尼。尼寺として栄え「縁切り寺」「駆け込み寺」と呼ばれました。かつて離婚は夫にのみ権限がありました。妻がここに逃げ込んだ場合、夫は協議離縁か寺法による強制離縁を選択しました。後者なら3年間の寺勤めが課せられました。明治35年(1902)に尼寺としての歴史は終わり男僧の寺になりました。臨済宗円覚寺派。


海蔵寺の紅葉海蔵寺の紅葉
建長5年(1253)に鎌倉幕府6代将軍宗尊親王によって建立されましたが元弘3年(1333)、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼しました。室町時代の応永3年(1394)に関東菅領足利氏満の命により上杉憲定が再興しました。仏殿裏のやぐらには枯れることのない湧き水をたたえた16個の穴があり「十六の井」と呼ばれます。これは弘法大師が掘ったと伝えられます。臨済宗建長寺派。


瑞泉寺の紅葉瑞泉寺の紅葉


稲村ガ崎のススキ稲村ガ崎のススキ
富士山と江の島と夕日が見えます。


七里ガ浜の朝日七里ガ浜の朝日
秋から冬にかけて朝日が三浦半島から昇るのが見えます。


国道134号線国道134号線の夜景


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